ダラダラ日記のようなもの

ダラダラと日々の日常を綴っていくブログになります。

死の淵からの帰還 - 奇跡の生還と困難な回復への道

月明りが零れ落ちる雪道の無料AI画像素材 - ID.83219|ぱくたそ

 

 

私が受けた頭の手術は、くも膜下出血と硬膜下血腫の処置でした。命を脅かすほどの深刻な出血だったのです。

 

 

 

しかし、骨折の手術はまだ行えませんでした。幼少期からの持病である門脈圧亢進症と食道静脈瘤の影響で、腹水がお腹いっぱいに溜まっていたからです。この状態を改善しなければ、骨折の手術はできないと医師から告げられました。

 

 

 

私の骨折箇所は多岐にわたっていました。右頭部の一部、左手首、右肩甲骨、右肋骨、右手の薬指と小指、右膝、そして左大腿骨。体中がギプスや包帯で覆われ、激しい痛みに苛まれる日々が始まりました。

 

 

 

さらに、胆管が細くなっているため、これ以上細くならないようにするための処置も必要でした。医師は「ステント」と呼ばれる小さな管状の医療器具を胆管に挿入する手術を行いました。このステントが胆管を内側から支え、開いた状態を保つのです。

 

 

 

この手術を含め、状態が改善するまで約1ヶ月かかり、その間は体中を襲う鈍痛と鋭い痛みに耐える毎日でした。まるで全身が火傷したかのような焼けるような痛みと、骨を砕かれるような鋭い痛みが交互に襲ってきて、私の精神力を試すかのようでした。

 

 

 

約1ヶ月の治療の結果、やっと手術ができる状態になりました。腹水が減少し、門脈圧も安定してきたのです。また、胆管にステントを挿入したことで胆汁の流れも改善されました。医師団は私の全身状態を慎重に評価し、ようやく骨折の手術を行えるだけの体力が回復したと判断したのです。

 

 

 

こうして、約5時間におよぶ大手術を受けることになりました。妻と次女は手術室の前で、不安と希望が入り混じる複雑な思いで待ち続けてくれました。妻は祈るように両手を胸の前で握りしめ、時折天井を見上げては深いため息をつきます。次女は母の肩に手を置き、励ましの言葉をささやき続けていました。

 

 

 

二人は交代で廊下を行ったり来たりしながら、医師や看護師が出てくるたびに息を呑んで様子をうかがいます。長い時間が過ぎるにつれ、疲労の色が濃くなる二人の表情。それでも、私のために強くあろうとする姿が、後に看護師から伝え聞いて胸を打ちました。

 

 

 

手術が終わり、担当医が二人の前に現れた時、妻はわずかに体を震わせながら医師の言葉に耳を傾けました。「手術は成功しました」という言葉に、二人は抱き合って喜び、安堵の涙を流したそうです。

 

 

 

手術では、左手首にプレートが挿入され、右膝には髄内釘が一本、左大腿骨には三本のラグスクリューが埋め込まれました。

 

 

 

他の骨折箇所についても処置が行われました。右頭部の骨折は、既に行われた頭部手術の際に固定されていました。右肩甲骨と右肋骨の骨折は、体を固定することで自然治癒を促すこととなりました。右手の薬指と小指の骨折に関しては、ギプスで固定し、慎重に経過を見ることになりました。

 

 

 

医師からは「骨折の程度や場所によって、それぞれ最適な治療法が異なります。今回の手術で主要な骨折は固定できましたが、完全な回復にはまだ時間がかかるでしょう」と説明を受けました。

 

 

 

手術後、再びギプスと包帯で全身をしっかりと固定され、動きが大きく制限された状態になりました。ベッドに横たわり、自由に動けない日々が続きました。

 

 

 

幸い、呼吸は普通にできましたが、体を大きく動かすことは困難でした。何とか自力で少しずつ体位を変えることはできましたが、それでも痛みを伴う動作には慎重にならざるを得ませんでした。

 

 

 

自分の体なのに、思うように動かせない不自由さに戸惑いつつも、回復に向けて一歩一歩前進していることを実感する日々でした。

 

 

 

手術から数日が経った頃、私は新たな不快感に気づきました。左手首から親指、人差し指、中指にかけて激しいしびれが走り、その上の手の甲までもが痛みを伴って痺れていました。

 

 

 

この症状は医師によると撓骨神経麻痺によるものだと説明されました。長期間のギプス固定が原因ではないかと推測されましたが、確実なことは分かりませんでした。

 

 

 

痛みは耐え難いほどで、薬による痛み止めで一時的に和らげることはできましたが、薬が切れてくると再び激痛が襲ってきました。この痛みとの闘いは、まるでローラーコースターのように上がったり下がったりを繰り返す日々でした。

 

 

 

「なぜこんなことに...」と、私は歯を食いしばりました。手術の痛みからやっと解放されたと思ったのも束の間、新たな苦痛との戦いが始まったのです。

 

 

 

そんな中、妻は毎日欠かさず私のもとを訪れ、痛みで顔をゆがめる私の手を優しく撫でてくれました。

 

 

 

娘たちは私の痛みを少しでも和らげようと、手の甲を中心に優しく丁寧にマッサージしてくれました。特に次女が頻繁に来てくれて、親指から中指にかけての痺れと痛み、そして手の甲の激しい痛みに対して、慎重にマッサージを施してくれました。

 

 

 

次女は毎回、「お父さん、少しは楽になった?」と気遣いながら、痛みのある箇所を的確に捉え、優しく圧をかけてくれました。彼女の手つきには、娘の深い愛情と気遣いが感じられました。時に痛みで顔をしかめる私に、「ごめんね、痛かった?」と声をかけながら、細心の注意を払ってマッサージを続けてくれました。

 

 

 

長女も時々来てくれては、自分なりの方法で私の手をさすってくれました。二人の娘がそれぞれの方法で私の痛みを和らげようとしてくれる姿に、私は深い愛情を感じました。

 

 

 

専門的な知識はなくとも、ただ父親の痛みを少しでも軽減したいという純粋な思いから生まれた行為でした。そのマッサージは、たとえ痛みそのものを完全に取り除くことはできなくても、私の心を温かく包み、大きな慰めとなりました。

 

 

 

娘たち、特に次女の懸命な努力と愛情に、私は深く感動し、言葉にできないほどの感謝の気持ちでいっぱいになりました。家族の存在が、どれほど大きな支えになっているかを、あらためて実感させられる瞬間でした。

 

 

次女は私の気を紛らわすために、スマートフォンに様々な音楽を入れてくれました。左手でも操作しやすいように工夫してくれたその気遣いに、私は深く感動しました。

 

 

 

そして、この撓骨神経麻痺との闘いの最中に、さらなる試練が待っていました。ある日の面会時、妻が右側から話しかけてくれたのに、まったく聞こえないのです。

 

 

 

「ねえ、右から話しかけても聞こえないの?」と妻が心配そうに尋ねました。

その瞬間、私は愕然としました。右耳がまったく機能していないことに気づいたのです。

 

 

 

「あー、もう災厄だ。なんでここまで...」と、心の中でつぶやきました。

左手首の痛みと右耳の聴力喪失。二つの試練が重なり、一瞬にして希望を失いそうになりました。しかし、そんな私を支えてくれたのは、やはり家族の存在でした。

 

 

 

妻と娘たちは、私のこの新たな状況に適応しようと必死でした。左手が使いづらいことを考慮して食事の補助をしてくれたり、右耳が聞こえないことを気遣って常に左側から話しかけてくれたりと、その気遣いは細やかなものでした。

 

 

 

家族一人一人の思いやりの行動が、私の回復への希望となりました。右耳が聞こえなくなったことは確かに辛いことでしたが、家族の愛情に包まれていれば、どんな困難も乗り越えられると信じることができました。彼らの存在が、苦しい治療の日々に光明をもたらしてくれたのです。

 

 

 

時には親友たちも連れてきてくれ、彼らの明るい笑顔と励ましの言葉が、私の苦しい闘病生活に希望をもたらしてくれました。

 

 

 

家族や友人たちの存在は、私にとってかけがえのない希望の源となりました。彼らの愛情と支えは、暗闇の中で輝く灯台のように、私を導き、勇気づけてくれました。彼らの献身的な気遣いと変わらぬ愛情は、私の回復への道のりを照らし、生きる力を与え続けてくれたのです。

 

 

 

 

 

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